見栄えを良くする必要と不要

私は「心の存在」に気がつくことが大事だとお話しています。

最初は心の有り様が大事だと思っていたのですが、必要なのは有り様ではなく「心そのものの存在に気がつくこと」でした。

この心の存在は様々な呼び方をされます。

幸せとか幸運とか光とか

だから心に常に意識を向けていれば良いとなるのですが、では意識や感情、身体は不要なのかどうかと言えば、これには段階があり「今」は必要です。

幸せな人ほど意識的・無意識的に内面だけでなく表面も輝いています。

これが「印象」となります。

あの人はなんだか素敵だねと感じるのは、内側から外側に幸せ(光)が溢れているからです。

そういう人たちは綺麗です。

おしゃれだとか、高級なモノを身につけているとか、良い場所に住んでいるとかは、結果的にそうであるだけで根本は「綺麗」なのです。

綺麗じゃない人は汚いとかっていう話ではありません。

「綺麗であろうとする」という意味合いです。

これは全てにおいて共通していて、
モノを大事にするのもそうだし、
身体を大事にするのもそう、
身体がしっかり動くように運動をするのもそうだし、
おいしいモノを適度に食べるのもそう、
好みの服装をやお化粧をして身体を引き立ててあげるのもそう、
自分をいたわってあげるのもそうです。

何か一つを良いようにするというよりも、手の届く範囲を大切にします。

これを外側から手を加えようとするのが、「見栄えを良くする」です。

身ぎれいにして、立ち居振る舞いを丁寧にする。

分かりやすく「おしゃれに力を入れる」と理解しても良いです。

外見に手を入れることによって、そこが輝きます。

人は輝きを持つと心が軽くなり、良い感じになっていきます。

だから「掃除が良い」と言われるのです。

「整える」ことによって、良い感じがする。

この感覚によって幸せを感じやすい状態になります。

「きれいにする」は何においても効果を発揮しやすいです。

これが「必要」という話です。

では「不要」は何か。

やり過ぎることです。

おしゃれをするにしても、もっと良い物・もっとおしゃれな物・もっとおしゃれにする方に意識が向いたら気をつけてください。

「おしゃれ」が目的では無いからです。

目的は「幸せであること」であり、おしゃれを通して幸せな状態をつくりだすことです。

これが「もっともっと」となると、欠乏感に引っ張られて求めるほどに幸せ感から遠ざかり始めます。

じゃあ、どうしたら良いか。

おしゃれに意識を向けたら、おしゃれを通して「自分の中の幸せ」に意識を向けます。

おしゃれをした時にどんな感じにわくわくしたかとか、何が楽しかったかとかです。

そのわくわく感や楽しい感じを思い出し、「幸せの感覚」を引き出していきます。

これまでの事を思い出して、「幸せの感覚」に近いものを探します。

時間が掛かるかもしれませんが、目安になるものがあれば思い出せる可能性が高まります。

そして何か気に掛かることに気がついたら、そこに意識を向け、可能ならば手がけてみてください。

関わりを持っている間に「あぁ、こういう感覚だったか」というのが少しずつ増えていきます。

幸せは誰でも持っているものですが、分からなくなっていることがあります。

おしゃれはこれらを思い出すための一つの方法になってくれます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました