写真は高尾山麓(11月30日)の風景です↑
昨日、腕立て伏せをやり過ぎて背中を痛めました。
今日は大人しくしています。
さて本題。
昔の事ですが、集合写真を撮った時に、デニムの膝部分に穴が空いてました。
私の中では「集合写真」の方を優先して、見栄えは考えてなかったです。
たまに家族からも写真を見て、「膝に穴空いてるよね~」と言われます。
10数年を経て、「あぁ、これは失礼だったな」と思い至りました。
集合写真は大事なのですが、その場に対する意識が少し低かったです。
こうやって自分を振り返り、自分のダメだったところに意識を向け、自分を責めるのが罪悪感の一つです。(自分を脇に置いて他人を責める場合もありますが、これも罪悪感の一つです)
「なんて自分はダメなんだ」みたいな感じ。
この時は罪悪感に意識を向けるのが普通です。
しかし、ポイントは罪悪感を感じる自分ではなく、罪悪感を感じた理由に気がついた自分自身です。
罪悪感を感じた理由は「周りに失礼だった」という周りへの配慮です。
周りに配慮をしても良かったよねという気づきです。
それは周りに対する優しさでもあります。
ここです。
優しさを感じられた自分こそが、本当に感じてあげたいポイントになります。
今までは気にしもしなかったことなのですから、すごいことなんです。
心の拡がりというか気づきというか。
すごいことなのですが「自分はなんてことをしたんだ」という方に意識を向けるから罪悪感になります。
本来、全ての罪悪感は、自分の本質への気づき・優しさに繋がっています。
でも罪の意識が強くなりすぎて、その根幹の本当に大切な事が見えにくくなっているのと、そういった気づき方があることを知らないので、分からないのです。
実際に罪悪感を感じるようなことは、その根っこに、その本質に「優しさ」があります。
罪悪感という表面的な感覚に引きずられてしまって分からなくなってしまうのですが、罪悪感は「自分自身を感じている」のと同じです。
つまり、罪悪感は勘違いなんです。
自分の思い込みともいえます。
罪悪感を具体的に掘り下げながら受け止めていくと、自分の中にある大切なものに手が届きます。
「あぁ、そうか」となっても、周りに迷惑を掛けていたなっていう感覚は無くならないかも知れません。
しかし、それでも新しい理解・感覚が自分の中に生まれます。
新しい理解・感覚が生まれたら、これまで蓋をしてきた罪悪感や罪の意識についても、もう一度振り返ってみると良いです。
その全てがあなたの優しさに繋がっていることに気づくかも知れません。
やってみれば新たな発見があると思います。
罪の意識を感じたら、自分を掘り下げます。
何かをやった自分・考えた自分に対して、「具体的に私は何を感じていたのだろう」と掘り下げていくと、気づくことが出てきます。
その気がついた事がすごいことだと分かってきたら、新しい世界の扉が開くと思います。


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